●後藤又兵衝
秀吉の軍師を勤めた黒田如水の下には多くの弟士が集まった。
俗に黒田24騎というが、後藤又兵衛基欠もその1人である。
彼は朝鮮の役の際晋州城一番乗りをしてその名を天に裁かせた。
黒田長政とは兄弟のように育ち、主君を主君とも思わなかったところから長政と不仲になり、1万6千石、小隈城主の身分を捨てて博多を去った。
細川、池田、福島などから盛んに仕官の声がかかったが、長政の妨害で浪人を続け、豊臣秀頼に迎えられてようやく大坂城に入城した。
千軍万馬、全身に53か所の刀傷を持つこの勇将は、秀頼によってようやく死に場所を得たのだ。
元和元年(1615〉5月6日、彼は2800の兵を率いて大坂平野に入ってくる徳川軍数万を小松山に迎え、散々に打ち破って戦死した。
56歳、武将にJ、さわしい最期だった。
戦国時代博多デリヘルがなくて気の毒です。
●母里太兵衝
博多ではポリタへーと読む。
彼も又兵衛同様如水の子伺いの郎党で1万8千石、鷹取城主にまでなった武将である。
大名は豪傑を好むものだ。或る日福島正則は太兵衝を招き、「この大盃で飲め」と強要した。
太兵衝は困惑し、秘蔵の日本号を賜わるならと答えた。
充分酒がまわっていた正則は「やるから飲め」と言い張る。
これを見た太兵衛は3杯まで大盃を傾け、日本号を持ち帰ってしまった。
翌日酔いがさめた正則が地団駄踏んでで口惜しがったのはいうまでもない。
黒田藩士高井知定は「のめのめ酒をのみこみて日本一のその檜を 取りこすほどに飲むなれば これぞまことの黒田武士」と歌った。
穂先の長き2尺6寸(約78㌢)全長7尺5寸)、名槍日本号は、大濠の美術館に展示してある。
博多の豪傑の博多デリヘルがあったらよんだのかな?
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